カレーライス (仮)01

「ねぇ、これぐらい?」
「どれ? あ、そんなもんでいい。もっとデカい方がいいか?」
「どうだろ? ま、いいんじゃない」

 松男は「まかせる」とだけ言うと、再び玉ねぎのみじん切りに取りかかった。キッチンからは時折、くしゃみとため息の中間のような音が漏れている。どうやらみじん切りは相当につらいらしい。

 紙袋一杯に入った玉ねぎをみじん切りにするには、相当量の涙と鼻水に立ち向かわなければいけない。涙をぬぐいながら、鼻水を袖でおさえながら、きっとひたすら包丁を動かしている。涙と鼻水で松男の顔はグシャグシャになっているんだと思う。

 ニンジンとジャガイモは私の担当。私はダイニングテーブルの上でそれぞれの大きさを切りそろえている。二人並ぶには狭すぎるキッチンだし、二人並ぶ理由を見つけないと一緒にキッチンに立つのはやり過ぎな気もする。首を伸ばせば松男の背中は見えるはず、いちいち確認しないけど、私はグシャグシャになった松尾の汚い顔を想像して、少しおかしくなった。声には出さないけど、自分の口元が笑っている。

 土曜日、松男は大きな寸胴鍋を持って現れた。

 私はその前日、取引先との飲み会があって、赤ら顔の男どもが繰り出す説教を聞きながら、いつものように笑顔だけは絶やさずに、ひたすら時が過ぎるのを祈っていた。

 その日の飲み会、言葉選びを間違えたのは私だ。いつもなら仕事の話で場をつなぐのに、「彼氏いないんですよね」なんて口を滑らせたのが失敗だった。おじさんたちは途端、物珍しいエサに食いつくハイエナのように、目をらんらんと輝かせて質問を浴びせてきた。

 それもこれも彼らにとっては助言であり、酒の肴。わかっているつもりだけど、私にとってはなんだか説教にしか聞こえない。曖昧な笑顔でそれを甘んじて受け入れる私、全く嘆かわしい。

 彼らから見れば子どもの私は、これでももうすぐ28のいい大人。彼らが必死に聞きたがる「彼氏イナイ歴」と、元カレと別れたいきさつなんて適当にお茶を濁せる。ホントの別れ話ならなるべく自分で消化するし、恋の憂さ晴らしに付き合ってくれる似たもの同士(女)だっている。それぐらいにはしなやかにたくましいのよ、28は。

 おじさんたちは、私が作ったその場限りのイナイ歴と別れ話に親身なふり。恋愛攻略法を考えてくれたかと思えば、彼氏以外とセックスするのか? そんな話も織り交ぜてくる。

 まぁでも、部下の中から私と気が合いそうな人の名を挙げてくるのは、なんだか子どもっぽくて可愛い。私の父もお酒を吞むと、こんな感じになるのかな。……想像するのはやめておこう。マジでムリだから。

 そんなわけで、私の失敗のせいで普段より長く感じた飲み会が終わった。彼らは過去の武勇伝を得意げに語り結構な遊び人風を吹かせるのに、そのくせしっかり家に帰る。私には毎度一緒に帰ろうと言うくせに、そんな意気地のある人たちじゃない。そこで本気で来られても困るけど。

私は口ばかりのおじさんたちをタクシーに押し込んだ。まぁ仲良く同じ方向、便利だわね。

 ここまでがその日の私の仕事。ふっと肩から息を吐くと、さっきまでやたらニコニコしていた自分に無性に腹が立ってきた。面倒なことなしに呑みたい気分、ちょっとだけヤケ酒したい、そんな気分。

 とはいえ夜もそれなりに深い時間だから、今から誘ってもきっと誰もつかまらない。盛り上がっているところに後から参加するのも、それはそれで疲れそうで嫌なんだよね。

 金曜の夜にすぐ捕まる女は安く見られるって知ってるけど、そういう女が集える店があるから都会は好き。イケメンマスター(たしかじゃないけどゲイらしい)に電話を入れると、残念なことに今のところ満席。近くに住む独身女に電話したけど繫がらない。たとえ繫がったとしても、どこにいる? 呑む? どこで? じゃ何時? って面倒。

 ま、いいか。なんとなく買ったばかりのケータイをいじりながら、駅に向かって歩を進める。終電ギリギリの電車は憂鬱だ。その分だけ割引して欲しいぐらい。混雑に足を向けるだけで、なんだか自然と足が重くなる。

 流行りのコミュニティサイトにアクセスする。会社にいる数少ない友達と大学・高校時代の友達らがそこで繋がっている。皆がそれぞれの近況、それもついさっきの出来事を報告している中、一番新しい投稿に松男がいた。ホントにただの偶然なんだけど、松男は私が今向かっている駅にいるようで、位置情報だけを投稿していた。そういえば、彼の職場はこの近くのはずだ。会社帰りなのかもしれない。

 私は松男の投稿に「駅? 近くにいるよ」とだけコメントをつけてみた。私の方から誘ったみたいで少し恥ずかしい。歩きながらすぐに消してしまおうか迷ったけど、その割に返信も期待していて、歩きながら何度もサイトを更新してしまう。欲しがっている女はもてないわ、もう一人の私がそれを笑う。

 駅に着いた頃、突然電話が鳴った。松男からだった。

「久々、お前今どこいんの?」

 おそらく松男から電話がかかってくるのは初めて、人生で初めて。なのに彼は、そっけなくて単刀直入だった。「オマエ」なんて言われてちょっとムッとしたけど。ちょっとだけ動揺していたから、ことさら平静を装って「ひさしぶり、駅だよ。仕事で……」とだけ返す。

「同じ駅? それ無理だよ。改札いま無理だから。ちょっと待って。駅のどこ? 南口? わかった、そこ行くから改札あたり、な?」

 私は、たった今の会話を整理しながら改札に向かう。すぐに松男が言った「無理」の正体がわかった。

 どうやらトラブルで電車が停まっているらしい。終電間際の駅は、混雑と苛立ちで空気にトゲがあるように見えた。ここで風船を持っていたなら黙っていたってパンッと割れる。

 松男の姿を探す。でも、数年ぶりの彼の姿を想像できるほど、私は彼を知らない。ヤバい、なんかちょっと緊張する。今の私、どんな顔をしているんだろう? 大丈夫か私?

 ちなみに松男は私の友人の彼氏だった。とはいえ、十年近く前に数ヶ月だけ付き合っていた友達の彼氏。名字が「松井」で、「松井(男)」が縮まって松男(マツオ)と呼ばれるようになった。

 当時の私たちのグループには松居という女がいて、それと区別するためにそんなあだ名で呼んでいた。結局それから数年後、女の方は高嶋という名字に変わったけど、松男は松男のまま残った。女の方は名字といっしょに新しい自分になり、私とも私たちのグループとも疎遠になっていく。

 言っておくけど、私と松男はそれほどの仲じゃない。あと一人か二人、仲良しの友達がいれば成立する関係。二人で会ったことなんてないし、なにより会えば数年ぶりの再会になる。

みんなが仕事をはじめれば、昔の仲間と会う機会は少なくなる。会えばきっと楽しいけど、勝手知ったる松男とはいえ、そこは殿方でございます。とりあえず自分の今の顔をチェックしなかったことを後悔している。でも鏡でチェックするのもなんか違う気がする。

 そこへ「よう!」と松男の声。おそらく同時に気づいたと思うけど、一歩目の橋は松男が渡ってきてくれた。私は笑顔を返すだけ、楽してスマン、松男よ。

「この時間に電車来ないとか、ありえないよね」
「ジンシンだって案内あったな。多いよな最近」
「そういえば私、今週2回目か。朝に巻き込まれて久々遅刻した」
「残念ながら今夜も電車こないぞ、30分は待ってた」
「そんなに? キツイね。あ、ところで、ずいぶんお久しぶりです」
「お、おう」

 私は営業スマイルをたくわえ、幾分かしこまって頭を下げて挨拶してみせた。肩すかしをくった松男は、ぎこちなく会釈。

 それから松男はたった今気づいたように、近くに会社があること、仕事が終わって帰るところだったこと、そして残業すると上司にいい顔されないことなどを矢継ぎ早に語った。

「それでどうする?」

 私は松男の話を現実に引き戻す。

「電車ムリッぽいから、お酒付き合ってよ」

トゲトゲしい改札前の空気が居心地悪くて離れたかったし、なにより呑みたい気分だった。松男の返答は「お、おう」。

 松男はあまり店を知らないとブツブツ言いながら、歩き出した。頭の中で店を物色している彼は上の空、どうやら付いてこいってことみたい。夢中になったときの男って松男といえどもホントかわいいと思う。

 彼は駅からほど近いビルの上にある居酒屋に案内してくれた。たまに同僚と行く、彼曰く「フツー」の店らしい。

 終電間際とはいえ、金曜日の夜は満席に近かったようで、ちょうど団体客が出たばかりの座敷に通された。大机をいくつかに仕切って、急ごしらえの私たちの席を作ってくれた。学生風のアルバイトが、すぐ隣で団体客の後片付けに追われている。

 私は食事を済ませていたから、飲みやすいと評判の焼酎を水割りで注文した。松男は「腹減った」とつぶやくと、次々とお腹にたまりそうな品々を頼み出す。そして最後に「それと生ビール」と言った。普通は頼む順番逆でしょ。なんだかおかしくて自然に笑っていると、松男が不思議そうにこちらを見た。

「焼きそばとキムチ炒飯って、炭水化物ばっかりじゃない?」
「違う。いや違わないな。ここのは旨いんだ。焼きうどんの方がよかった?」
「私はごはん大丈夫だって。さっきまで食べてたもん」
「遠慮じゃないのか、ちと頼みすぎたか。ま、喰える」

 そう言いながら松男は、スーツを脇に置いてネクタイを外した。その手慣れた仕草がさっきまで一緒だったおじさん達と同じだ。松男も28の男として、彼らと同じ道を進んでいるのだろうか。

「前からよく食べるよね。太らないの?」
「わりと体は動かしてるしな。それでも前より太ったから、ビールは少し加減してるよ」
「今、ビールたのんだよね?」
「一杯目は数に入れないことにしてるんだ」
「なにそれ?」
「わかんない。俺ルール。それに金曜だろ」
「ふふ、変わってないね。柿山くんの結婚式以来だから、二年ぐらい会ってないよ。あのときも変なルールの話をしてた気がする」
「そうだっけ? 俺だってびっくりしたよ。梨本さん仕事できそうな服着てるから」

 そうか、パンツスーツで松男に会うのはたぶん初めてだ。それに私だって、会社員の松男を見るのは初めてなんだ。おい松男、さっき電話では「オマエ」と言っておいて、やはり会えば「梨本さん」か。いじめてやろうかと思ったけど、その前にお酒とビールが運ばれてきた。

 なんとなく「それじゃ」とだけ言って乾杯すると、松男はぐいっとジョッキを傾けて、のどを鳴らす。顔を戻すと、ジョッキの中のビールは半分以上なくなっていた。私は「食べていいよ」とお通しを差し出す。すでに彼のお通しはなくなっていたから。松男は「いいの? すまんね」と言うとすぐに箸をつけた。男が気持ちよくご飯を食べている姿は、私が枯れた女子でもぐっとくる。

 それからホントになんでもないやりとりをした。仕事の近況とか、共通の友達の話題とかそんなこと。松男はその間に頼んだ料理を次々と片付けていく。二杯目のビール、松男のルールでは一杯目のビールだけど、それが空になるころ松男はひとしきり満足したように食事の手を止めた。

 「よし、実は折り入って相談がある」

 松男はそう切り出した。

エディター。 学生時代にソフトバンク(現在のガンホー)で働きはじめ、情報処理や撮影・バイヤーを経験。インプレスに入社し記者・編集者・デスク。外資系メディアグループのAOLオンラインに転じ、Engadget Japaneseに参加。メディアをリブートするためリテンション施策、イベントディレクション、動画事業立ち上げ担当。動画スタートアップのViibarにてbouncyに参加。事業責任者としてbouncyを朝日新聞社に事業譲渡し、現在は朝日新聞社にてbouncyの編集長