カフェの隣席でいい大人の息子と母親がもめている。すぐ隣でなくとも聞こえる大きな声だった。
横目でちらちらと確認しただけだからわからないけれど、いい大人の息子は子どもっぽい口ぶりではあるものの、たぶん30才目前ぐらいだろう。子どもっぽい口ぶりは母親の前だからかもしれない。
息子、母の再婚を嫌がる。
いい大人の息子は劇団員のようで、その母親は近く再婚するらしい。再婚相手はいい大人の息子を嫌っていて、それは挨拶をしないから、らしい。
いい大人の息子の言い分は、アイツはいちいち文句ばかり言うから気に入らない。それに対して母親は、それほど文句は言わない人だと言う。
母親は息子に、アナタがどちらの性を名乗ってくれてもいいと伝えた。
いい大人の息子は、とにかくアイツが気に入らないようだ。再婚相手の名字を呼び捨てにしながら母親に「アイツの口車に乗せられているのか」「アイツがそんな男のわけねぇだろう」と少しずつ語気を強めていく。
母親はそんないい大人の息子の性格を知っているからか、声が強くなると話題を変える。息子にバイトの話題をふると、息子は夏で虫が多くなっていてそれが嫌だと言う。
カナブンとゴキブリ
そのうち、いい大人の息子はカナブンとゴキブリの違いを得意気に話す。最初は普通の音量だったが、母親が聞いてくれることが嬉しいのか「ゴキブリ」という単語が何度も店内に響く。
母親の最初の注意は優しく「もう少し小さな声で」、それでも話を続ける息子に「その話はやめて」。
「とにかく」といって荷物をまとめだす母親は、自分が再婚する意志に変わりがないこと、そしていい大人の息子が名字を決めていいことを伝えて立ち上がる。
「絶対ひとりで来いよ」
いい大人の息子は「気に入らない」という主旨を態度で表しながら座ったまま。
母親は言う「舞台は観に行くからまた招待してよ」。いい大人の息子は少し迷って「絶対ひとりで来いよ」と言った。
母親はそれに応えることなく立ち上がる。いい大人はまだブツブツとふてくされながら、ほんの少しだけ遅れて母親のあとを追った。
入り口近くにいた涼やかな雰囲気の若い男二人がそれを目で追いかける。涼やかな男たちは何ごともなかったように自分たちの会話に戻った。
二人のところにカフェの若い女性店員がやってきて、仕事の笑顔ではない本当の彼女を見せた。彼らはおそらく友達、何やら会話に交じる。もうすぐ閉店、アイスコーヒーの氷はずいぶん前にとけてしまった。