がんばったら、結構なんとかなるんじゃないかな。
そんな曖昧で無責任なことをよく言います。暗にもう少し頑張れる余地があるんじゃないのか? と問う。実際にはちょっと嫌な言葉なのですが、我々の多くは自分のかなり手前のところに線をもうけ、懸命に頑張ったと言っているような気がします。
プロのアスリートであれば、そんな風ではなかなか記録も伸びず、よっぽどの才能がなければプロであることを維持できないはずです。しかし、私を含め会社員は、自分たちがその道のプロであることをどこか忘れさせる仕組みの上にいます。
プロの自覚
プロフェッショナルはその職において、生計を立てている人のことです。会社員として日々試行錯誤しながら仕事で成果を出し、それで対価を得て暮らしているなら、我々も堂々とその道のプロフェッショナルです。
日本は会社がかたむきでもしない限り、なかなかクビを言い渡すことはありません。それはつまり、プロとしてその現場に必要な人材かどうかが、曖昧になりがちだということです。
同時にそれは、プロとして自覚を持ちにくい仕組みと言えるかもしれません。対価を得て生計を得ているにも関わらず、プロの仕事をしない人は数多くいます。それで暮らせるならそれでいいのかもしれませんが、私はそれは特別な状態でないか?と思っています。
メディアの世界に20年以上にいるので、世間の評価にさらされることはままあります。炎上を経験したことも、また大変感謝されたこともあります。残念ながら「津田が記事を書いてバズったら、ボク頑張って手術するよ!」という機会には恵まれていません。
いずれにせよ世間の時に厳しい評価にさらされる場所なので、プロの自覚は持ちやすい状況にあります。しかし、世間の評価を気にせずとも、会社員としてなんとなく雇われたからその場所にいることもできる職業でもあります。
プロに問われる価値
プロの世界にいる以上、自分の代わりはいくらでもいて、いつでもレギュラーの座は奪われる状態にあります。会社員もそうだと思っています。私自身もいつ脅かされるかと、ドキドキすることがあります。
単独でプロとして生きる世界もあれば、プロ集団としてチーム力で勝負する世界もありますが、いずれにしても会社員はプロです。プロとして自分自身の価値が世の中に求められているか。そしてプロとして自分自身の価値が世の中に通用するか。そういう世界線にいます。
もちろん、この世界は自分の努力ではどうにもならないことが多々あります。努力不足なのかもしれないし、努力の仕方が間違っているのかもしれません。また、ただ才能に恵まれてなかった可能性だってあります。
自問自答の日々を生きる
自分はどんなプロでありたいか。そのために懸命にやっているのか。その価値で周囲を喜ばせているのか。そして、それをもって自分で自分に納得できるのか。
40年以上生きていると、本当はもっと生きていたかったはずなのに、残念ながら亡くなってしまった親しい方達がそれなりにいます。そしてまた、たくさんの困難に遭遇しながらも、自分を信念を貫いている人たちが今現在もたくさんいます。
おい、お前は懸命に生きてんのかよ。
ふいにそんな声が聞こえてくる気がします。時々、背中をシャキッとさせるそんな声に元気をもらいながら、おそるおそるプロフェッショナルをやっています。
日々、才能のある人間をうらやましく思い、他人の才能をねたみ、ねたんでいるだけでは生き抜けないから、仕方なくこわごわ捨て身でプロをやっています。