person using typewriter

動画は言葉の壁を越える。というのを言葉で説明できないと話にならない。

年に何度か、動画について大学で教えたり、企業研修の講師として伝えたりすることがある。ここ5年で一気に増えた仕事だ。動画が時代のニーズにマッチしているせいなのか、単に自分がじじいになったせいなのかはわからない。

なんであれ、誰かに必要とされるのは嬉しい。必要とされて役に立つなら、それが犯罪に手を染めるようなことでも、人は喜びを感じるのじゃないだろうか。それによって悲しむ人がいるから、手を染めることはないけれど、もし身と心を寄せる場所が失われたら、もしかすると犯罪コミュニティであれ人は大切な場所になってしまうのかもしれない。

言葉の世界と動画の世界

文章から動画を主戦場にメディア展開して来年で10年になる。動画をやってきて思うのは、言葉の世界では届かなかった人たちに届いている感覚ある点だ。

言葉はとても残酷で、言語として理解できる必要があり、内容を理解できる知識が必要になる。伝えることはどんな言葉であれできるが、操れる言語でなければ伝わらないことがほとんどだ。英語ならわかる人でもアラビア語なら全く理解できない。それが普通だ。

たとえ使える言語であったとしても、知識レベルや文化的な背景への理解などがなければ、ニュアンスが伝わらない。身振り手振りがあれば補完できるが、言葉だけではなかなか厳しいものがある。

動画はニュアンスを伝えること、雰囲気を理解させることに向いている。現代人は視覚偏重とは言われるが、動画はそれを顕著に感じる。モノの形や状況の説明など、言葉では何文字も使って説明せねばならないことが、いとも簡単に伝わる。

たとえば、東日本大震災の当時、何度もテレビで放送される災害の映像に心が不安定になる感覚はなかっただろうか。何度も可視化されるショッキングな映像がまぶたの裏に焼き付き、私は心が落ちていきそうな感覚になった。危険な気がしてそれ以降、ラジオニュースで情報を集めるようにした。視覚に入ってくる惨劇は心へ傷を残す。

目を奪われるような強い映像は、記憶にこびりつく。この目を奪われるという感覚を映像にうまく落とし込めると、動画は見てもらいやすいものになる。

なんとなく目新しく見えるもの

まだ見たことがないという要素が非常に大事だが、全く見たことないものより、なんとなく想像できるくらいの未知のものの裾野が広くていい。全く想像つかないものは、現代の人はなんだかわからないものとして通り過ぎてしまうことが多いようだ。

この目新しさと、テクニカルな意味で目を奪う要素とをあわせて動画にすると、日本以外の国からもごく当たり前に見られるようになる。

ガジェットメディアで動画をやっていた頃は、中国や東南アジアなどのユーザーの反応が良かった。おそらくアジア圏はガジェット的な手の内側におさまるツールの寛容度が高い。

今手がけているメディアでも東南アジアは強いが、新たにアフリカ圏やアラビア語圏でも反応がよい。より目で見てわかりやすいものを届けているため、幅がひろがった感じがする。

局地的に盛り上がる

動画は意図も簡単に言葉を壁を越えていく。こちらの想像もしなかったところで、局地的に盛り上がることがある。長年文章でやってきたこともあり、言葉の壁を越えていく感覚がとても新鮮に感じる。

そして、ここをうまく言語化してメディアをやっていくと、良い感じに見られるものを提供できるのかな、と思っている。

メディアの編集長と事業責任者と、会社の広報を兼務している老害

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