photo of imac near macbook

我がパソコン人生

メディアに片足を突っ込んで2019年で20年になる。2002年に出版社に入社したところから計算するともう少しあるが、振り出しは1999年にスタートした。

今回とあるきっかけがあり、パソコンについて振り返ってみたい。

学生時代

1999年、当時は大学生で、ただただパソコンがさわれるとお金になった時代だった。前年に大学でパソコンに出会い、肉体労働に汗を流した末、自分のパソコンを手に入れた。

大学と同じアップルのPower Macintoshと思ったが、周辺機器も含めると予算に収まりそうもなかった。結局、ソニーのVAIOにしたが、周辺機器を含めるとなんだかんだ50万弱もした。

パソコンは自分が作りたいと思っていたものが、なんとまぁ簡単にできた。誤解を恐れず言えば、世の中に出るのが簡単なツールだった。

パソコン万能

遊び半分でフリーペーパーやWebサイト、メルマガを作り、記事を書いていた。作品用の写真を撮りそこに載せたりもしていた。

フィルムスキャナを入手するのはずっと後だったから、それまでは大学のフィルムスキャナを使った。当時のゴミ取り機能はそうでもなかったから、スキャンすると数時間をゴミ取り作業に費やした。

ゴミを取り除いた1枚の写真データをMOディスクにコピーし、それを家に持ち帰る。AdobeのLightroomはまだない。トーンカーブを駆使して、頭に描いた色味に近づけた。

当時は、ハッセルブラッドで撮影し、写真データを加工して発表していた。ストレート写真に見えて、実はそうじゃない写真を作品にしていた。複数のレイヤーでボケ写真を重ね、なんとも輪郭が蒸発しているような写真を作っていた。なぜそうしていたかは忘れたけどw

映像は大変だった

映像の編集はまだまだ非力で、充分な環境とは言いがたいものがあった。Premiereもあるし、それなりにHDDの容量もあったが、書き出すのに数時間かかったりもした。

そんなこともあって、卒業制作をのぞいて、学生時代の作品は8mmフィルムとビデオのリニア編集が中心だった。コミケの時期になると、大学の編集室は自作のアニメをコピーする「臨時業者」であふれたのを覚えている。

あの頃は映像以外の作業が全てがお金になったように思う。パソコンでエロ画像収集に時間を奪われなければ、やっていること自体がすぐに仕事に結びつくほどだった。そういった作り手が少なかったのだろう。

ソフトバンク

ソフトバンクで大学にも行かずに商品撮影し、記事を書いていた。自作の作品作りに金がかかるので、派遣社員として働いていた。当時は箱崎に仕事場があった。

基本的な仕事を覚えてからは、商品の売り文句をいくつも考えて社員に持ってくるよう言われた。何度かやりとりして、そのうち1つが採用された。

それを繰り返していくと、やがて2つ3つと採用されるようになり、いつしかチェックなしで売り文句が採用されるようになった。

それがコピーライターという仕事なのだと知った。卒業したら写真でご飯を食べていこうと思っていたが、こっちの方が合っているかもな。そう思った時期だ。

とはいえ、それがどういう仕事なのかよくわかっていなかった。夏休みに古本屋さんで糸井重里の本を買った。その人が有名なコピーライターであることは知っていた。

いくつか読んで、世の中にぽっかりあいている言葉をピタッとあてはめるような仕事なのだな、と思った。笑いを追求しない大喜利のような仕事にも思えた。

当時のパソコンのメモ書きは、ネットに落ちているフレーズがたくさん保存されていた。とくにどうするってわけじゃないけど、気になるワードを抜粋しておくと、コピーを作りやすかった。

サービスを立ち上げてみた

ソフトバンクではバイヤーもやらせてもらった。自分が調達したものが売れるのは楽しかった。フリマが楽しいのと一緒だw

1年働いてまた、大学に戻ることにした。当時の上司に「みんな就職困っているのに、お前は就職活動しなくてよかったな」と言われ、カチンときて辞めた。若さゆえのトンガリくそ男子だw

まぁそんなこともあって、ソフトバンクを離れると、同じ職場の先輩から「一緒にサービスを作ろう」と声がかかった。パソコンがあれば仕事になる時代。Webサイトを立ち上げて、とりあえず代表になった。

まだネットにはリアルの情報が少ない時代だった。スーパーで集めた情報をネットに載せるだけで喜ばれ、アクセスが伸びた。ある特定条件で情報を集めると、それが価値になると知った。

真似されやすいものの、なるべく軽く使える形にしたことがうまくいった。「編集」という言葉はまだ知らなかったが、これがやがて自分の仕事になるとは思ってもみなかった。

Webサイトでは広告収入以外にお金にはあまりならなかったが、学生のWeb屋さんはおそらく少なかった。いくつか雑誌に載ったこともあって、それをきっかけに大人との商談のようなものが増えた。

商談の1時間前に慌てて1000円で名刺を作ったのを思い出した。ネットに名刺のテンプレがあってホント助かった。

パラレルお仕事

学生のくせに副業野郎だった。

ヤフオクで依頼されたモノを売って、その売上げの何割かを得る仕事もやっていた。秋葉原に生息する諸先輩方には、買うのは好きだが梱包を解くのが苦手な人たちがいて、買ったきりまったく開封していない製品を眠らせている人がいた。

そういう人たちの依頼を受け、モノに支配された部屋で製品写真を撮影してオークションに出す。ノートパソコンがあれば、その場で全部完結した。一世代、二世代前のメモリがよく売れた。サイズも小さいので梱包も楽なのがなおよし。

学生時代は商品撮影、店舗撮影、イベント撮影、変わったところではアニメ背景の資料撮影なんかも仕事になった。

写真撮影の打合せで撮影イメージを簡単なイラストで描いたら、なぜかイラストを頼まれたこともあった。あわてて手描きのイラストをデータ化する方法をネットで調べた。

パソコンに感謝したい

あらためて、パソコンがなきゃ仕事にならない。それは今もそうだ。

ただ、多くはスマホでできるようになった。自分より若い世代の記者は、メモ書きをスマホでやっている人たちも多い。あくまでも道具だから、使い慣れた道具であればきっとなんでもいいのだろう。

正直なところ、自分がパソコンにときめくことはもうない。道具としてのアップデートはもうそこまでないと思っている。表示と入力の部分で変化の余地はあるけど、きっとそれはもうパソコンと呼ぶものじゃないんだろう。

今回、なんでこんなことを書いたか。実家の両親のパソコンが壊れて、泣きが入って対応したから。父は何かの団体の会報やら各種資料を作り、積極的にパソコンの利便性を第二の人生に活かしている。

パソコンはたくさんの人の人生を変えていると思う。

メディアの編集長と事業責任者と、会社の広報を兼務している老害

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