若者はモノを知らないので受け売りが多い。まるで実感がない文章などは、その根拠を問う。すると、漠とした世の中の論調を根拠にしている場合がある。
ソースは全てWikipedia
まだ出版社にいたころ、新卒研修でやってきた若者に「わからないなりに、ググってでもいいので書いてみて。参考URLもつけてくれればいいので」と、伝えたことがある。
すると、できあがった原稿の出典がすべてWikipediaだったことがある。ググるの意味がわからず、大学時代のレポートと同じようにWikipediaから根拠を連れてきて書いたらしい。
新しい時代がやってきたな、と当時は思ったが、以来そんなことにも驚かなくなった。Wikipediaに限らず、ネットに書いてあったことを根拠に書く若者ライターだらけになったからだ。
フワッとした言葉が過ぎる場合、何を調べてそういう記事になったのかを質問するようにしている。根拠が曖昧であれば、根拠が曖昧だよと伝える。
その曖昧さにメディアがお墨付きを与えてしまうと、誤解されたまま伝わっていく可能性がある。このメディアは嘘を伝えている!と糾弾されるならまだしも、それが気づかれずに残ればミスリードの連鎖が拡大する。
この手の指摘に、若者は素直な反応を見せる。ネットに慣れている彼らは、情報には常に曖昧さがあり、不確かなものであると体で理解しているのだ。
軸がぶれまくっているとも言えるが、柔軟性があるとも言える。情報が溢れている今は、「不確実」のタグをあらゆる情報に貼って、確度を高めていく方が効率がよいと思う。
情報社会に取り残された「レジェンド」
一方で、情報過多な時代に耐性や柔軟性がない人たちがいる。シニア世代に多く、新聞やテレビ、雑誌といったレガシーなメディアしか情報ソースがなかった時代の人たちだ。
傍から見れば都市伝説のようなトンデモであっても、一度自身の軸に据えてしまうと後戻りしにくいようだ。不確実な情報であっても、それを補強するのに充分な情報がたくさん世にある。たこつぼ的なところに押し込まれた視野狭窄した情報を見つけては、どんどん「レジェンド化」してしまう。
人は自分に都合にいい情報以外、接触したくない。
そのことだけ頭の中にいれておけば、自身のレジェンド化は防げると思っている。ただ、一度レジェンドになってしまった人は戻りにくい。とくにシニアがそうなると指摘も受けにくいだろう。
ちょうど自分の父親がそういう世代ということもあって、そんな話をしたことがある。学生運動華やかなりし時代の人だ。
定年退職して、かつての仲間が左右極端な方向にレジェンド化している場合があるらしい。レジェンドとは周りが少しずつ疎遠になることもあるが、基本的にはそんなに顔を合わせるものでもなく、とくに弊害はないようだ。
老い先短いからあまり心配すんな。とは父の言葉。バリバリの学生運動闘士だったようだが、彼についてはレジェンド化しそうもない。