テレビの天気予報が夕方から雨になると言っていた。雨になるのはいいが、夕方からの雨に備え、日中ずっと傘を持ち歩くべきなんだろうか。アイスコーヒーの氷が音を立てストローをゆらした。
鈴木祐二はグラスを持ち上げ、テーブルにたまった水滴を紙ナプキンで優しく吸いとった。ぬれた紙ナプキンをそのまま、両目にあてがう。冷たい刺激がたまらない。ひと仕事終えた昼下がり、夏場はこれがたまらない。八千代は脚の長いカウンターチェアに浅く腰かけ、昼の売り上げを勘定している。
「ゆじさん、やっぱそれ変。冷たいの渡したのに」
ここは軽喫茶「フィジー」。ランチタイムを終えた気の抜けた時間。高校生アルバイトで、マスターの娘でもある八千代がいつものように文句を言い始める。「スンマセーン」と鈴木は気の抜けた返事。まぶたの上の紙ナプキンがもう少し温まるまで、そのままでいるつもりだ。八千代が投げた袋入りのおしぼりが右腕に当たった。
「ねぇ仕事は? 私が言うことじゃないけど、あんまり働かないのも心配になりますよ。でしょマスター」
「ヤチ、鈴木はちゃんと仕事してるぞ。オマエも読んだろ? 週刊スクープ」「それは読んだけどずいぶん前じゃない。いつもダラダラしてるし」「まぁ仕事はしてる。徹夜明けか?」
八千代は実の父をマスターと呼ぶ。店の外だってそうだ。フィジーのマスター、藤井輝明はコーヒーカップをきれいに並べながら友人にちらり目をやる。
「うーん、まぁダラダラだ。いつものようにダラダラやってる。仲良し親子に心配してもらえて俺は幸せだ」
「え、ダラダラが何? 変な格好で話すから聞こえないよ」
「鈴木はヤチにしかられ幸せだってよ」
藤井は豪快に笑い、八千代はあきれた様子で鼻から息をもらす。店の前を自転車に乗った子ども達が通り過ぎていく。プール帰りの彼らはそろいのバッグを持っていた。
藤井はかつて新聞記者だった。妻に男ができて別れると自身のキャリアを投げ打って記者稼業を廃業、周囲を驚かせた。周りには「仕事にかまけていたら女房に逃げられ、仕事が嫌になった」と言うが、鈴木は独り身で娘を育てる藤井の決断を知っていた。
退職金を使って実家の一階を喫茶店にリフォームし、それがフィジーとなった。藤井の名前から鈴木がふざけて名付けた店名だったが、この名前がハマった。フライにしたパイナップル入りのカレーライスを店名にちなんで「フィジーカレー」とした命名したところ、たちまち評判になったのだ。
店は開店してしばらくして、軌道に乗った。10年近くたった今、藤井は南国風カレーの店主として、メディアに顔を出すこともある。ちなみに、藤井自身はフィジー島にはなんのゆかりもなく、いまだにフィジーにカレーがあるのかも知らない。
藤井と鈴木は馬が合った。当時週刊誌の編集者だった鈴木は、とある裁判の取材で藤井と顔見知りになる。新聞と週刊誌では取材の仕方がまるで違うため、ごくたまに会うだけだったものの会えば決まってそこから吞みに出た。ほとんど仕事の話はしなかったが、街に沈むと少なくとも朝までは音信不通になった。
あるとき、鈴木の担当する特集にストップがかかった。広告主に配慮して営業部門から編集側に注文がつけられた。編集長は1カ月後にあらためて特集を組むことで営業の顔を立て、同時に編集側の不満を回避しようとした。しかし、記事には世に出るタイミングがある。
納得のいかない鈴木は藤井に自分の情報を預けた。ネタはとある企業の資金の流れを追ったもので、彼が周囲にひた隠しにしながら情報を集めていたものだった。藤井はその情報を元に人物の相関図を作り、関係各社の見えない繋がりを記事にした。記事はその年の記者賞を獲得し、鈴木と藤井がその金一封で朝まで「高くて旨い酒」を吞むことになる。
「八千代ちゃん、だらしないおじさんにコーヒーちょうだい。あったかい方」
「アイスの後にホット? おなかこわすよ」
「いいの、飲みたいの。でも心配ありがとねママ」
「ママって何よ。少しは彼女でも作って遊びに行けばいいのに」
「そんじゃあ、八千代ちゃんが彼女になってよ。大人の魅力たっぷりだぜ」
「なにそれ! 口が過ぎるぞジジィ!」
藤井がさっきよりも大声で笑った。鈴木は八千代が投げた冷たいおしぼりで顔をぬぐった。気持ちよすぎる。夏のおしぼりはたまらない。おしぼり様のおしぼりサマーだ。
フィジーを後にすると車のエンジンをかけた。すぐにエアコンをいれたが、熱気のこもった車内にいるのはためらわれた。ドアを開けたままタバコをくわえる。夕方とはいえ身体にまとわりつく昼間の空気がせっかく引いた汗を呼び覚ます。
吸いかけのまま車に乗り込んだ。さっきよりはまし、といった申し訳程度の冷風だったが少し走れば変わるだろう。くわえタバコのままカーステレオにICレコーダーをつなげる。運転しながら取材した内容を確認するためだ。昨日は胸にICレコーダー、袖の部分にマイクを隠しての取材だった。時折衣ずれの音はあるものの、録音状態は良好。
鈴木はこの稼業で20年以上のキャリアがある。40才の手前で週刊誌の一線から退けと辞令が出て、そこで辞表を出した。彼の夢は職人になることだった。鈴木にとって編集長もデスクも興味がもてず、偉くなるのはやっかいな荷物でしかない。「そんなだから嫁が来ない」は八千代の口癖だが、鈴木は「俺の嫁になるって言ってたのは誰だ?」と返すと決めている。
学生時代、たまたま先輩から紹介されたのが新聞社の出版部門だった。そこでアシスタントとして、荷物持ちと掲載する写真の整理をしていた。バイト代は相場より高く、バイトだけで長年暮らしている「元学生」もいたぐらいだ。
しかし数カ月もすると単調な仕事に飽きてしまう。そこで、バイトを通じて関係のできた編集プロダクションで働きたいと志願した。収入は減り、自由に使える時間も少なくなったが、2年余計に在籍した学生時代はほぼそこで過ごした。
今、彼が追っているのはブームの兆しが見える金融商品。その兆しはテレビや雑誌を発信元として、確実にユーザーに広がりつつあった。テレビの深夜番組では、アイドルが自腹で購入した金融商品で儲けを捻出、生活するという企画が注目を集めていた。雑誌も入門特集が組まれるようになり、ネットではすでに半年以上前からブログなどを通じて認知度を高めていた。
人が自分の金をどう使おうが知ったことではない。しかし鈴木は作り込まれたブームに人が取り込まれていく、そんなやり方が気にくわないと思っていた。
昨日の取材は、大手IT企業の人事担当として、新たな金融商品を手がける連中から資産運用の提案を受けるというものだった。もちろん人事担当になりすましただけで、IT企業とは関係がない。
用意するのは企業のロゴと名前の入った名刺と架空の名前、そしてスーツだけでよかった。名刺の体裁はその企業と同じ必要はない。もし相手がその企業の名刺を知っていたとしても「変わった」の一言で済む話だからだ。
待ち合わせはIT企業の入居するビルの1階。「すいません、会議室がいっぱいで」と言って話のできる近くの喫茶店に向かえば誰でもその会社の一員になれる。
小型のICレコーダーを胸に入れて、袖口からマイクを出す。スパイ映画じゃあるまいし特別な装備はいらない。装着して録音状態のまま落ち合えば、気取られることもないのだ。自然な形でテーブルにおいたケータイでもしっかり録音する。
最初は人事担当者として、しっかり営業担当者の話を聞く。その時点で取材対象の能力を見極める。そいつができる男なら深入りはせず、また次の機会を狙う。たいていの場合、大したヤツじゃない。
今回の男も風采のあがらないタイプだった。営業としてのキャリアはあったが、自身も金融商品で少し焦げ付いている。能力以上に一攫千金を夢見ているタイプだ。相手の話に興味を持って聞いているのがわかるよう、次の言葉が出やすいように相づちをうっていく。いつもより気持ちよく営業トークをさせてやればいい。
カーステレオから流れてくる昨日の追体験は、頭の中でかつて観た映画のワンシーンを観ているかのような気持ちになる。登場人物である自分が少しずつ会社の内情やその男の私生活に迫っていくのがわかる。男はそれに気づいていていない。
男に聞くべきことは済んだ。普段より気持ちよくプレゼンテーションを終えた男は、少しだけ自信をのぞかせがら契約を求めた。ここで手綱を弱めることなく一気に仮約束まで持ち込みたいところだが、もう一歩足りない。「もう一度よく考えてみる」とこちらも言いやすい。気持ちよく話せただけにモヤモヤとした様子だったが、男は喫茶店のコーヒー代も2人分支払って帰った。翌日渡した名刺の番号に電話したところで、ハローワークに繫がるだけだ。
昨日の取材を振り返ったところで、頭の中で図面を引き終えた。あとは指定の文字数で書くだけだが、それは夜中の作業と決めている。
信号待ちの交差点。右折ランプを待ちながらウインカーの決まったリズムに呼吸を合わせ、アクセルペダルを踏むタイミングをじっと待つ。曲がってしばらく行くと、白いタイル張りのマンションにぶつかる。そこで車を停めた。携帯電話を鳴らすと、何コール目かで女の声。
「もしもし、どうしたの?」
「今日は何時から? 一杯付きあえるか?」
「うーん、今日は9時だからそれまでならいいですよ。お店一緒行きます?」
「夜は仕事だな」
「そっか、今どこ?」
「白いマンションの前のモスグリーンの車の中」
「うそ!」という言葉の数秒後、4階の芦田久美の部屋のカーテンが揺れた。
「びっくりした。10分で準備する。上がります?」
「いや待ってるよ」
電話を切ると、タバコをくわえて取材の要点をメモ帳に写す。彼女の準備はおそらく20分以上かかるはずだ。遠くで雷雲の音がする。ひと雨来るかもしれない。
「ごめんね、待たせて」
助手席のドアが開くと、急に誘い出したにも関わらず久美はすまなそうにした。車の中に久美の匂いが充たされていく。とくに答えず「何食うか?」とだけ言った。久美は「何吞むか? でしょ」と言って空を見上げた。最初の雨粒がフロントガラスを鳴らして、いつの間にか厚い雨雲が空を飲み込んでいた。