20年前、働いていた会社で学生だった自分を採用してくれた人がいる。その人は部長で、若いヤツらの方がネットの世界をわかっているとよく言っている人だった。
その部長に自分は「毛ガニくん」と呼ばれていた。腕の毛が濃かったからで、身体的特徴を平気であだ名にするあたり、なかなか時代を感じさせる。
別にバチが当たったわけではないが、部長は程なくして業績不振の責任をとり倉庫勤務の島流しとなった。誰がどう見ても左遷だった。
ドラマのようだった
それはなんだか嘘くさくてドラマのようだった。
部長は上の口が開いたままの段ボールに、荷物とキーボードやマウスを放り込み、誰にも言葉をかけられることもなくその場を去った。
部長の最後を見送ったのは一番下っ端の自分だった。段ボールに入りきらないパソコンとモニターを台車で運ぶためだ。部長はいつもと変わらず、顔をくしゃっとさせながら「毛ガニくん、悪いな」と言って首をすぼめた。
通りで部長は自分でタクシーを呼び止めた。タクシーの乗り方もよくわからない若かった自分は後ろのトランクの開け方がわからないでいた。部長が運転手に一声かけると、トランクルームは魔法のように開いた。
段ボールを車の後部座席に押し込めると、部長はこちらを振り返った。昨日まで親しげにふるまっていた副部長以下スタッフたちは誰一人見送りにこなかった。
唯一の送り人だった自分は、残念ながらこういう時にかける言葉を持ち合わせていなかった。部長を目で追うだけの自分に、彼は笑顔を作って「毛ガニくんもがんばれよ!」と声をかけてくれた。
緑のタクシー
たぶん、戦いに敗れた大人を初めて見た経験だった。去って行く緑色のタクシーを今でもはっきり覚えている。
その後、部長がどうしているかは知らない。昨日まで副部長だった人がスライドして、翌日から部長になった。
新任の部長は、たまにキャバクラの女の子の話を面白おかしくする人だったが、部長になった途端、いつもキャバクラの話をしている人になった。