selective focus photo of white osteospermum flower in bloom

やりがい沼と蛸壺のヌシ、楽しくない話をしよう

私を含め、みんな褒められることが大好きだ。クリエイティブ系の仕事の人はとくにそうかもしれない。相手を喜ばせること、それ自体を目的化しているところがある。そして、こじらせるとギャラ以上にがんばってしまうこともある。

仕事を引き受けた場合、ある時点で必ずお金に代わる。最初からギャラを提示するところもあれば、フワッと金額を握って進むこともある。こちらが発注者の場合、事前にギャラを握った上ではじめる。

要件をちゃんと決め、やることを明確にして進むこともある。何らかの事情で確定していない部分もありながらプロジェクトを進めることの方が多い。いずれの場合も、引き受ける側は自分の中で納得感をもって取り掛からねば、よい仕事につながりにくい。

よい仕事にはいろいろある。プロジェクト自体が魅力的な場合もあれば、ギャラが魅力的な場合もある。自分の成長につながる仕事という場合もあるし、知名度が上がることで、ほかの仕事につながる可能性があるなど副次的な効果を期待する場合もある。

いずれの場合でも、自分が納得できない場合は引き受けない方がいい。引き受けてよかったという話になることがあまりない。

頑張った対価

がんばったのだから、もっとお金が欲しい。そう思うのが人間だ。しかし、がんばったこと自体をお金に変えようとしても、実はさほど価値は高まらない。それは、がんばったことに対して、対価が払われるわけではないから。

では、納品物への対価なのかというと、ちょっと違う気がしている。一定の品質のものを安定供給する場合はその通りだが、どちらかというと対価は「満足度」とつながっている。お客は満足度に対して支払いたいと考えているんじゃないか。

満足の提供価値

満足度の高め方はいろいろだ。品質だけじゃないし、納品物だけの話でもない。フリーランスとして求められる仕事は、企業研修や会議への参加、代表の壁打ち相手などそうでない仕事も多い。

本業でお世話になっているクリエイターさんもいろいろな人がいる。言われなくても調べて自らの血肉を増やそうとする人もいれば、要求するラインのギリギリをついて安定供給と数をこなす人もいる。もちろん、知識も品質も要求レベルも追いついておらず、機械的に言われたことだけやる人もいる。いろいろだ。

それらの良し悪しには言及しない。なぜなら、発注者側の好みもあるからだ。日本人は努力する人を好む傾向にあるが、努力する人の品質が良いというものでもない。当たり前のように努力し続けられる人は成長スピードが速いが、それを求めるのは贅沢というものだ。ギャラと見合わない。それぞれのスタイルでメディアに貢献してくれたらいい、と思っている。

満足度が高い人とは気持ちよく仕事をしやすく、次の仕事もお願いしやすい。それに伴ってギャラも上げやすい。バランスが取れないクリエイターさんは「こんなに頑張ったのに!」と自ら不満を募らせる結果になりやすい。

仕事に応じて、組む相手に応じて、満足度が高まる部分は異なる。ゲームのように五角形のグラフを想像し、満足度が上がる部分を模索して楽しむようにしている。そうでもしないと、気持ちが持たない。

蛸壺のヌシになる前に

人生を使うからには、打てば響く相手と仕事がしたい。しかし、一方で仕事を選べるような立場でもない。世知辛い話ではあるが、こなす仕事で稼ぎを作っていかねば、編集部を維持できない。

打っても響かない相手とのやりとりは、なるべく流していく。やりがい沼にハマると、喜んでくれる相手を想像しがちだ。しかし、相手がその方法で喜んでくれる相手かどうかは、よくよく観察した方がいい。

現実的には楽しい仕事ばかりじゃないが、楽しい仕事にする努力は続けていきたい。そうでないと、いずれやりたいことだけをやると主張する蛸壺のヌシになってしまう。

あまり楽しくないことを書いたつもりだが、この仕事を20年以上も続けている。なんだかんだで夢をみて、そしてずっと愛しているよ。

メディアの編集長と事業責任者と、会社の広報を兼務している老害