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余計なものなどないよね。

なんて万人の共感を呼ぶ言葉なんだろう。この言葉を冒頭に持ってくれば、そりゃあ思わずSay Yesと言ってしまいたくなる。

余計なものなど本当にないのか、はここでは問題ではない。「余計なものなどない『よね』」がとても重要なのだと思う。

余計なものなどない。

言い切る強さは書き手の自信をのぞかせる。良い書き手はうまいこと自信のバランスを調整して信頼を得ている。

この言い切る強さを利用すると、コミュニティ形成が手っ取り早い。ある程度の規模のコミュニティを作るなら言い切りは重要だ。

世の中には他人の言霊を受け取って暮らしたい人が多い。考えたくない内容を誰かの考えをまとうことで、付け替え容易な血肉とする。たとえそれにそぐわない現実に直面した場合でも、多くは責任を取る必要がないので合理的と言えるかもしれない。

これはたぶん、鈍感さを味方につけている人が向いている。Don’t think, まとえ! と言われてもなかなか意識してアクションしにくいだろう。

余計なものなどないよ。

語尾に「よ」をつけると、メディア的になる。言葉が主張から伝達に変わる。古くからメディアがやっているのは、トーンの違いはあるが「よ」だ。

この「よ」に前述の言い切りを組み合わせると、ジャーナリストとかコラムニストとか、一本立ち感のする認められ方をする。

「よ」を弱パンチのように当てていき、必殺の言い切りコンボを決められる書き手は尊敬されやすい。言い切り比重の高い人は、鈍感力のある客が集まりやすいので、世間の耳目を集めたガール方は意識するといい。ガールだけでなくボーイも同じ。

経験の浅い書き手は、伝聞を多用するらしい。レポートを「という」ばかりで紡いでいくそうだ。言葉として使っていけないのではなく、連投すると肩を壊しやすいように、多用を気をつけねばならないという。

と、いったように伝聞は書き手の自信のなさが出る。

1つの段落くらいでは気にならないかもしれないが、続くと読み手が辛い。曖昧さをそのまま伝えられるが、ファクトは自信もって伝えてくれないとふに落ちていかない。

余計なものなどないよね。

ラストは「よね」だ。これはブログメディアが生み出した発明といえる。

「よ」がレガシーな伝達であるのに対し「ね」が語りかける要素になっている。相手をおもんばかり、より注意深くお客を見ながら言葉を届ける距離の近さが特徴だ。

前述した「よ」のメディアもお客を見ているが、お客と一定の距離をとる。情報の流れが一方的で関所のような役割を果たす。

「よね」はよくいう顧客目線というやつだ。目線をあわせて言葉にする。複雑化した顧客のニーズを汲みとり、それに最適な解を提供するために寄り添う存在になる「よね」だ。

簡単にいうと「あなた思いの『よね』」か。

初対面の人と天気の話をするように、人は共通点を探してやりとりする。プロトコルを合わせて円滑なコミュニケーションをするのは、生存競争の中で人が培ってきたものだ。挨拶の折、握手する欧米もそういうことなのではないだろうか。

「よね」には、そういういろいろがつまっている。だから、余計なものなどないよね、は素晴らしいんじゃないか。

メディアの編集長と事業責任者と、会社の広報を兼務している老害

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